ログイン恋に落ちるという言葉を発明したのは誰だろう。
淡々とつづくはずだった日々の中で、それは道にポッカリと空いた落とし穴のように僕を待ち構えていた。 高校を家から遠い私立校にしたのは、煩わしい人間関係を、すべて白紙に戻すためで、新しい環境下での生活や、そこにある出会いなんてものに、僕はまったく期待を抱いていなかった。 ましてや青春なんてものを謳歌したいなどとは夢にも思わない。 誰も信じない、誰も頼らない、誰もアテにもしない。それが僕のモットーだ。 思えば子供の頃の僕は愚かだった。 大人たちはみんながみんな立派な人格者だと思っていたし、近所の悪ガキも根は悪い奴じゃなくて、いつかはきちんと解り合えると信じていた。 人間は根本的に善で、世界は可能性に満ちあふれた素晴らしい場所だなんて、実にマヌケな思い込みをしていたのだ。 だから僕はいつだって、ひたむきに努力して、勉強も運動も頑張ったし、実際に学年一の秀才だなんて、おめでたいラベルを貼られてもいた。 もはや死語になって久しい気もするが「末は博士か大臣か」なんて本当に言われていたのだ。 実際のところ、本気で取りかかれば今だって、それほど成績は落ちていないはずだけど、僕は中学時代ずっと手を抜いていた。成績が上がれば希望の高校に進みづらくなるからだ。 もっと良いところを受験しなさいなんて言われるのは煩わしいし、そうでなくても学校で目立つのはイヤだ。どうせ、ろくなことにならないのだから。 僕が入学した私立そう――恋に落ちたんだ。
僕が暮らす小さな町から星輪高校のある茜川までは、片道ほぼ一時間。彼女が現れたのは目的地までの道のりを半ば以上越えたところだった。
その駅には見事な桜が立ち並んでいて、ロングシートに座っていた僕は対面の窓から、その風景をぼんやりと眺めていた。 こんな田舎でも朝の駅には、それなりに人が並んでいるものだ。その大半は通勤と通学の客で、彼女もそのひとりだったわけだが、窓越しであるにも関わらず、僕の視線は自然とそこに吸い寄せられた。 あきらかに新入生と判る真新しい制服にスクールバッグを提げ、輝くような髪をふわりと風に膨らませている。ここから見ても、一目でそうと判るほどの美人だ。 彼女が他の乗客とともに車内に乗り込んできたとき、目を奪われていたのは僕だけではないだろう。 座席はすでに満杯だったため、彼女は何気ない足取りで僕の前に歩み寄ると、そこで吊革に手を伸ばした。その間、もちろん彼女は僕のことなど気にしない。 それをいいことに僕はさりげなさを装って彼女を観察してみた。 化粧っ気はないが、肌は見るからにきめ細かい。高校一年生とは思えないほどスタイルがよく、その女性らしいフォルムは制服の上からでも見て取れる。決して派手なタイプではないが、その逆からはさらに遠い。少なくとも彼女が美人であることを否定する奴なんて、この世に存在しないだろう。 そんなことを考えていた僕は、はたと我に返って愕然とした。 色恋なんかにまったく興味がなかったこの僕が女子に目を奪われたばかりか、節操のない若者のように彼女のボディラインまで眺め回していたのだ。 心の中で自分を叱責し、なんとかペースを取り戻そうとした矢先、僕の隣で居眠りしていた客が、唐突に飛び起きた。 どうやら、ここで降りるつもりが乗り過ごしかけたらしい。彼が慌てて列車の外へと飛び出していくと、ちょうど目の前に立っていた彼女は、ごく自然に僕の隣へと腰を下ろした。 いい香りが鼻孔を刺激し、心音が信じられないくらいに高鳴ったのを覚えている。 もう自分を誤魔化すことも否定することもできなかった。それが恋だということは、こんな僕でさえ理解できたのだ。 こんな話はもちろん誰にもできないけれど、その日以来、彼女と同乗できる茜川までの30分足らずが、僕にとって至福の一時となった。あまりの怖さに失神者続出! 心臓の弱い人は見ないで下さい! 軽く死ねます! そんな宣伝文句は、ホラーが苦手な僕でさえ、誇大広告だとバカにしていたけど、実際に見たあとでは、とてもそんなふうに考えることはできなかった。 上映が終わって席を立ったときも、顔から血の気が引いていたのが自覚できたし足下も覚束なかった。 情けない話だけど映画館を出るときも月子に支えられるようにして歩いていたくらいだ。 今こうして、ここで公園のベンチに腰掛けたあとも、しばらくはぼーっとしつづけていた。「映画に殺されるかと思った……」 ようやく我に返って呟く僕に、月子は近くの自販機で買ったらしい缶コーヒーを差し出してくる。「ごめんね。やっぱり、ホラーはダメな人だったんだね。無理をさせちゃったね」 「そういう君はムチャクチャ平気そうだね」 「三日森くんのおかげよ」 「僕の……?」 ずっとビビりまくって震えていた僕が何かの役に立てたとも思えないのだが。「だって、あんなふうに男の子に抱きつかれてたら、怖がる余裕なんてとてもとても。違う意味で身の危険は感じたけどね」 「あう……」 僕は肩を落としてガックリとうなだれた。そういえばそうだった。僕は途中から恥も外聞もなく、ずっと月子に抱きついていたんだ。「もうダメだ……。怖さのあまり女子に抱きついてしまうなんて……。もしこのことが学校で噂になったりしたら不登校になる自信がある……」 「そんなことになったら、さすがに責任を感じるわね」 「頼むから、このことは秘密にしてくれ」 「わたしはもちろん誰にも言わないけど、アレって結構話題になってる映画で、しかも今日は日曜日だからね。お客の中にクラスメイトが紛れていなかったって保証はどこにもないわ」 月子の言葉に僕は顔を引きつらせた。「でも、たぶん大丈夫でしょ。館内は薄暗かったし、傍から見ればどっちがどっちに抱きついてたかなんて判らないわ。誰かに聞かれたら、わたしが怖がって抱きついてきたって言えばいいのよ」 「月子……」 当たり前
翌日の日曜日に、わざわざ茜川まで足を延ばしたのは、地元量販店の品揃えの悪さがいちばんの理由だったけど、心のどこかでは、やはり月子のことが気になっていた。 もちろん、いくら地元に住んでるとはいえ、そうそう街中でバッタリなんてことはないだろうが、こういうとき人はあまり論理的ではない行動を取るらしい。 あれから僕は花屋敷さんの言ったことを、ずっと考えていた。 話の流れからして、たぶんあの人は、ことさら僕という存在に拘ってはいない。むしろ月子のことが好きな男子なら誰でも良さそうな感じだった。 それはつまり、あまり考えたくはないけど月子は今、道ならぬ恋をしてしまっているのではないだろうか。 たとえばそれは……。「ふ、不倫……とか?」 声に出してつぶやいたあと、バカな思いを振り払うように僕は大きくかぶりを振った。「違う、あり得ない。彼女はそんなことをする娘じゃない!」 「いやいや、女ってのはわかんないわよ~」 「そんなこと――!」 いきなりの声に反射的に振り向くと、驚いたことに当の月子がそこに立っていた。見慣れた制服姿ではない。今は私服で白いブラウスにショートパンツを身につけ、肩にバッグをかけて白い帽子を被っている。 いかにも清楚な女子高生といったイメージだが、その脚のラインが美しくて、ついつい目が行きそうになる。これならば女に飢えた中年男性など一撃でKOできそうだ。 つい先日、僕の頭をのせてくれていたその脚を、見知らぬ男の手が撫で回す姿を想像して僕は青ざめた。「つ、月子……」 「奇遇ね、三日森くん。相変わらず、挙動が不審だけど、どうかしたの?」 「君は……君って娘は……」 きょとんとした顔でこっちを見てくる月子に、込み上げてくるやるせなさを抑えながら僕はキッパリと告げた。「不倫なんて、すぐにやめるんだ!」 「――――っ!?」 月子は面食らったように身をのけぞらせると、見る見るうちに真っ赤になった。「なっ、なっ――」 何か言おうとしているようだが、動転のあま
熱中症のあと、学校を2日休んだ。 頭痛はすぐに治まったが、ダメージがお腹のほうに来たのだ。おかげでこの2日ばかり、トイレを友として過ごすことになってしまった。 それでも3日目には復活して、僕は意気揚々と学校に向かった。ようやく朝の彼女に会うことができる。期待に胸を膨らませるとはこういうことなのだろう。今日はいいことがありそうな気がした。「死にそうな顔してるわよ」 月子は僕に会うなり言った。「そ、そうかな? 僕は元気だし、今日は天気だし、今日も僕らのクラスは殺気で満ちあふれているよ」 「活気でしょ、活気。殺気で満ちてるクラスってどんなのよ? 怖すぎるわ」 夏休みが近いせいか、ホームルーム前の教室はいつも以上に賑やかだ。僕のふたりの友人も、離れたところで、やたらと大騒ぎしている。 その光景を遮るように月子が僕の目の前に立つ。「彼女に何かあったの?」 「…………」 僕は目を逸らした。真顔で月子が追い打ちをかけてくる。「寝取られた?」 「だから、そんなことを、しかも教室で言うなよ~~~っ!」 思わず叫んだら、クラスのみんなが一斉にこっちを向いた。 ま、まずい。とりあえず僕は、なんでもないんだとアピールするために、笑顔でみんなに手を振ったが、こともあろうか月子がツッコミを入れてくる。「よけいに怪しいなぁ」 「誰のせいだ!」 僕が言うと、月子はフッと笑って窓枠に腕をのせつつ空を見上げた。「きっと誰も悪くなかったのよ。彼女もまた歪んだ社会の犠牲者だったんだわ」 「いやいや、そんな三文サスペンスみたいなノリで誤魔化されないぞ。だいたい自分のことを他人ごとみたいに語るのはどうかと思う」 ジト目で言うと月子はこちらに向き直って誤魔化すように笑う。「ごめんごめん。けど本当にそっちの話なの?」 「今は言いたくない」 さすがに人目があり過ぎるうえに、いろんなところから注目されている。「わかった、それじゃあ、また後でね」
「三日森くん。三日森くん、起きて。駅に着くよ」 身体を揺すられて僕は目を覚ます。 なんだか柔らかくて心地良いところに頭をのせているようで、できることならもう少し眠っていたかった――と考えたところで、僕はぎょっとして目を見開いた。 目の前に月子の顔がある。 もっと手前に膨らんだ二つの、いわゆる母性の象徴がある。 つまり、この体勢は紛うことなき、膝枕――だった。「うわぁぁぁっ、ごめんなさいっ」 慌てて飛び起きると僕は自分の膝に両手をのせてお行儀良く座り直す。 それを見て月子が笑った。「気にしないで。こんなときなんだし」 月子はスカートのしわを伸ばしながら立ち上がると、僕に右手を差し出してきた。 今日は何度も僕にふれてくれた白くて柔らかい手だ。それを取って立ち上がると、列車は程なくして目的の駅に到着する。 扉が開くと、むせかえるような外の熱気と夏のニオイが全身を包み込む。燦々と降り注ぐ陽光の下、駅の屋根が落とした影がホームの床に白と黒のコントラストをくっきりと浮かび上がらせていた。 セミの大合唱が鼓膜を揺らし、またもや頭がクラクラして足下がふらついてしまう。それを月子は当然のように支えてくれた。 彼女に介護されながら歩き始めると、僕は駅の階段を上ったり降りたりして、ようやく改札をくぐる。いつもは何気なくやってることが一苦労だ。「うぅ……格好悪い」 「また言ってる」 月子に笑われて僕は赤面した。いろんな意味でばつが悪い。誰にも頼らないなんて言っておきながら、僕は今日だけでどれほど月子の世話になったことか。 なんだか誤魔化したくなって僕は投げやりに挑発的なことを口にする。「ああ、ここに居るのが君じゃなくて彼女だったらなぁ」 こんな失礼なことを言われて月子はきっと怒るだろうと思っていたのだけど、まったくその様子もなく、ごく自然に言葉を返してきた。「それを実現するためには、まず告白しないとね」 あてが外れた僕は、やむを得ずそのまま話を続ける。「告白はしないよ
まだ僕が未来に夢と希望を抱き、真面目に頑張っていた頃のことだ。 その当時、僕の学年では女子の間で、いろんな色や形のリボンを集めることが、ささやかなブームになっていた。 もちろん僕のような男子にはまったく関係のない話で、事実その事件が起きるまで、僕は流行っていることさえ知らずに居た。 事件というのは、まあわりとよくある話で、ようするに盗難だ。彼女たちのリボンが体育の授業中に、まとめてなくなったのだ。もしかしたら犯人は、ちょっとしたイタズラのつもりだったのかもしれない。 その頃の僕は何かとみんなに頼りにされていたこともあって、女の子たちからリボンを取り戻してくれるよう頼まれた。 名探偵ではないので犯人が誰かなんて見当もつかなかったけど、それはまだ校内のどこかに隠されているものだと僕は考えた。 まだ下校時間ではなかったから、犯人が誰であれ、大量のリボンを隠し持つのは難しい。ならば、きっと学校のどこかに隠したはず――そう考えたのだ。 はたして、それは屋上へとつづく階段の踊り場に積み上げられていた使われていない机の中から、まとめて見つかった。 僕は喜んで、それを彼女たちに届けに行ったのだが、そのとき誰かが言ったのだ。「やっぱり、三日森が犯人だったぞ!」 なにを言われているのか、一瞬わからなかった。 でも、その瞬間、そこに集まっていた全員の目が冷たいものに変わっていたんだ。 一瞬の間を開けて次々に罵声を浴びせられ、僕にリボンを探すように頼んでいた女子たちまでもが僕を罵り始めた。 混乱しつつも、僕は説明した。 そもそもリボンが盗まれたその時間に僕は体育倉庫で先生の手伝いをしていたから、そんなことは不可能だってことを理路整然とみんなに話したんだ。 だけど話し終えたとき返ってきたのは誰かのげんこつだった。 あとはもうみんなが寄ってたかっての殴る蹴るだ。 もちろん小学生のリンチなんて、たかが知れているから、大怪我なんかはしなかった。 ただ、そのとき誰かが言ったんだ。「前から生意気だと思ってたんだよ」 ――てね。 そ
クラスメイトさんの名前は沢木南月子だった。 さすがにあんなことがあると意識してしまうので、教室に居るだけで自然と覚えてしまう。 懸念していた片想いの彼女の件は噂話になることもなく、その日はもちろんのこと、次の日からも平穏な毎日がつづいていた。 けっきょく月子が電車に乗ってきたのはあの日だけで、僕はホッとしていた。面白がって変なお節介を焼こうとしないかと心配だったのだ。 いや、あるいはこれは自惚れだろう。僕なんかの恋路が赤の他人にとって、そんな面白いはずもない。 噂にしたってそういうことかもしれない。面白みのない男が誰かに一目惚れをしたなんて話をしても、きっと誰も喜びはしないだろう。 とくに月子のように人生が充実しているであろう人間は。 月子はクラスの中でも一際目立つ存在だ。容姿端麗で勉強もできればスポーツもできる優等生。 とくに6月に開催された体育祭での活躍はめざましかった。参加した個人種目のすべてで一位を勝ち取っていたはずだ。はっきり言って僕よりも体力があるのではなかろうか。 子供の頃のかけっこでは誰にも負けなかった僕も、ここではそう目立つ存在でもない。とくに徒競走に関しては手は抜いていなかったが前の奴にぜんぜん追いつけなかった。 そういえばそのときだ。ひさしぶりに月子に話しかけられたのは。「残念だったわね。あいつ、陸上部だもんね。陸上部が徒競走に出るなんて反則だわ」 眉を寄せてそれだけ言うと、月子はそのまま立ち去った。ちなみに彼女が参加した種目のすべてに陸上部員が参加していたという事実を彼女は知っているのだろうか? ぼんやりと月子の背中を見送っていると、背後から唐突にヘッドロックをかけられて、聞き慣れたバカっぽい声が耳元で聞こえてきた。「おいっ、三日森! なんでお前が月子さんに声をかけられてんだよ!」 絡んできたのは僕がいつもつるんでいる友人の片割れ、滝沢弘樹だ。 ややガタイのいいお調子者で勉強はダメだが運動神経はいい。この体育祭でもかなりの活躍をしていたはずだ。ただし、不良ではないのだが、どことなく不良っぽく、目つきが悪いせいで女子にはモテない。 僕は暑苦しい腕を引きはがそうとしながら、滝沢に苦情を言う。「なんでって、クラスメイトなんだから、べつに不思議じゃないだろ? だ