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第1話 恋に落ちる

last update 公開日: 2026-07-17 15:26:48

 恋に落ちるという言葉を発明したのは誰だろう。

 淡々とつづくはずだった日々の中で、それは道にポッカリと空いた落とし穴のように僕を待ち構えていた。

 高校を家から遠い私立校にしたのは、煩わしい人間関係を、すべて白紙に戻すためで、新しい環境下での生活や、そこにある出会いなんてものに、僕はまったく期待を抱いていなかった。

 ましてや青春なんてものを謳歌したいなどとは夢にも思わない。

 誰も信じない、誰も頼らない、誰もアテにもしない。それが僕のモットーだ。

 思えば子供の頃の僕は愚かだった。

 大人たちはみんながみんな立派な人格者だと思っていたし、近所の悪ガキも根は悪い奴じゃなくて、いつかはきちんと解り合えると信じていた。

 人間は根本的に善で、世界は可能性に満ちあふれた素晴らしい場所だなんて、実にマヌケな思い込みをしていたのだ。

 だから僕はいつだって、ひたむきに努力して、勉強も運動も頑張ったし、実際に学年一の秀才だなんて、おめでたいラベルを貼られてもいた。

 もはや死語になって久しい気もするが「末は博士か大臣か」なんて本当に言われていたのだ。

 実際のところ、本気で取りかかれば今だって、それほど成績は落ちていないはずだけど、僕は中学時代ずっと手を抜いていた。成績が上がれば希望の高校に進みづらくなるからだ。

 もっと良いところを受験しなさいなんて言われるのは煩わしいし、そうでなくても学校で目立つのはイヤだ。どうせ、ろくなことにならないのだから。

 僕が入学した私立星輪せいりん高校は、極めて平凡なレベルの学校だ。

 その壮大な名前に反して特筆すべき点が特にないため、僕ら星輪の生徒は近隣の若者たちから「宇宙飛行士」なんてあだ名されている。

 それでも卒業生のコメントによれば、自由な校風は何物にも代えがたく、卒業までの三年間、これといって煩わしい行事などひとつもなかったということだ。

 ついでに言うと校舎は全館冷暖房完備で夏も冬も快適に過ごせるらしい。

 日々の平穏ばかりを求める僕にとっては、まさしく理想的な学校だった。

 なのに、入学式のあの日。

 学校に向かうために乗った電車の中で、僕は生まれて初めての経験をした。

 そう――恋に落ちたんだ。

 僕が暮らす小さな町から星輪高校のある茜川までは、片道ほぼ一時間。彼女が現れたのは目的地までの道のりを半ば以上越えたところだった。

 その駅には見事な桜が立ち並んでいて、ロングシートに座っていた僕は対面の窓から、その風景をぼんやりと眺めていた。

 こんな田舎でも朝の駅には、それなりに人が並んでいるものだ。その大半は通勤と通学の客で、彼女もそのひとりだったわけだが、窓越しであるにも関わらず、僕の視線は自然とそこに吸い寄せられた。

 あきらかに新入生と判る真新しい制服にスクールバッグを提げ、輝くような髪をふわりと風に膨らませている。ここから見ても、一目でそうと判るほどの美人だ。

 彼女が他の乗客とともに車内に乗り込んできたとき、目を奪われていたのは僕だけではないだろう。

 座席はすでに満杯だったため、彼女は何気ない足取りで僕の前に歩み寄ると、そこで吊革に手を伸ばした。その間、もちろん彼女は僕のことなど気にしない。

 それをいいことに僕はさりげなさを装って彼女を観察してみた。

 化粧っ気はないが、肌は見るからにきめ細かい。高校一年生とは思えないほどスタイルがよく、その女性らしいフォルムは制服の上からでも見て取れる。決して派手なタイプではないが、その逆からはさらに遠い。少なくとも彼女が美人であることを否定する奴なんて、この世に存在しないだろう。

 そんなことを考えていた僕は、はたと我に返って愕然とした。

 色恋なんかにまったく興味がなかったこの僕が女子に目を奪われたばかりか、節操のない若者のように彼女のボディラインまで眺め回していたのだ。

 心の中で自分を叱責し、なんとかペースを取り戻そうとした矢先、僕の隣で居眠りしていた客が、唐突に飛び起きた。

 どうやら、ここで降りるつもりが乗り過ごしかけたらしい。彼が慌てて列車の外へと飛び出していくと、ちょうど目の前に立っていた彼女は、ごく自然に僕の隣へと腰を下ろした。

 いい香りが鼻孔を刺激し、心音が信じられないくらいに高鳴ったのを覚えている。

 もう自分を誤魔化すことも否定することもできなかった。それが恋だということは、こんな僕でさえ理解できたのだ。

 こんな話はもちろん誰にもできないけれど、その日以来、彼女と同乗できる茜川までの30分足らずが、僕にとって至福の一時となった。

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